日本とフィリピン(日下渉)

今日の日本では、新自由主義のもと、厳しい生存競争を勝ち続けることを要請されている。こうした過酷な競争は、落伍者を生み出さざるを得ない。しかし、互いの生を支え合う社会的紐帯は、すでにズタズタになっており、セーフティネットは脆弱だ。しかも競争のストレスは、異なる世界観をもつ他者を怨嗟する独善的な正義の言説を強めている。こうして社会が断片化すればするほど、社会秩序を人びとの手で自発的に維持するのが難しくなる。それに歩を合わせるかのように、国家も企業も「改革」の名のもとに国民や従業員を統制する制度と道徳の厳格化を進めている。もともと近代日本は、あらゆる公式の制度が精密かつ円滑に機能する社会を作り上げてきたが、それをいっそう厳格化することで、制度の崩壊を防ごうというのであろう。 たしかに、競争と統制の強化は、一時的には競争力の向上や社会秩序の効率性に寄与するかもしれない。だが、それは、人びとのストレスや生き苦しさの増大と、互いの生を支え合う相互依存の破壊という犠牲と引き換えに得られるものであろう。そのため長期的には、社会をいっそう断片化、硬直化させ、人びとが偶発的なリスクを受け止めながらも生き延びることを可能にする社会のしなやかさを蝕んでいるように思う。 他方、フィリピンのスラムでは、慢性的な貧困状況のなかで、もともと見ず知らずであった者たちが、互いに反目しながらも、最低限の生存を保障し合う相互依存を新たに作り出していた。また、政治家や役人に集合的に交渉して、コネ・システムや賄賂システムといった国家の統制から自律的な秩序を自生的に作り上げて、生の保障をより強固にしていた。たしかに、賄賂やコネによって今日を生き抜く生存戦略には、公式の制度による生の保障の実現を阻害するジレンマがある。だが、公式の制度による生の保障を期待できない状況で、何よりも今日の生存を優先するのは決して非合理ではない。彼らは、あえてリスクを呼び込む投企的実践を繰り返しつつ、他者と相互依存しながら自律的な制度を作り上げることで、偶発的なリスクに柔軟に対処しつつ、より豊かな生を目指してきた。 こうした相互依存と非公式で自律的な秩序は、目覚しい経済成長や公的な制度の効率性に寄与しないし、未来の不確実性も克服できないだろう。だが、今日の不確実で困難な社会を生き抜いていく際に、フラフラと低空飛行しながらも墜落はしない、よりしなやかでレジリエンスのある社会の創造には寄与するかもしれない。